パニック障害と遺伝(遺伝の基礎知識)
🍅ここではまず遺伝の基礎知識を整理します。
1.精神疾患と遺伝
(1)候補遺伝子は特定されていない
🍅以前から、パニック障害には遺伝的要因が関与していると指摘されてきました。この指摘にはほとんどの研究者が同意していて、要因となる候補遺伝子の特定作業が行われていますが、その特定には至っていません。また、他の精神疾患についても同様に原因遺伝子の探索が続けられていますが、単一の遺伝子として特定された精神疾患は現在のところありません。
(2)遺伝的要因と環境的要因の両方が作用して発症する
🍅パニック障害にとどまらず、精神疾患の遺伝的要因をめぐっては遺伝的要因と環境的要因の両方が作用して発症するとされ、この2要因のどちらがどの程度の比重を占めるのかは各疾患によって異なると考えられています。
🍅精神疾患の発症に複数の要因があるとして、遺伝的要因が占める割合のことを遺伝率といいます。遺伝率が極めて高いのが統合失調症と双極性障害で、遺伝率は60~80%程度とされています。これに対して、気分障害は遺伝的要因よりも環境的要因の比重が高く、松本ら(2013)によると遺伝率は40%弱とされています。
(3)もともと持っている脆弱性に誘因が加わって発症する
🍅不安障害も遺伝的要因よりも環境的要因の比重が高く、遺伝率は穐吉(2012)によると30~67%とされています。
🍅稲田(2003)、貝谷(2013)、音羽(2014)、柳橋(2016)は、不安障害の遺伝的要因は単一の遺伝子ではなく複数の遺伝子が作用したり、疾患感受性遺伝子が相乗的に作用することによる多因子遺伝であり、かつ環境的要因の影響のほうが大きいと指摘しています。
・疾患感受性遺伝子
→疾患の発症に関わる遺伝子だが、個々の遺伝子の影響力は弱く、
複数の遺伝子の作用ではじめて発症に至るもの。
🍅神庭(2006)は、精神疾患の要因には静的な要因(発症脆弱性)と動的な要因(誘因)があり、患者がもともと持っている発症脆弱性に誘因が加わって発症すると述べ、精神疾患の種類によって発症脆弱性の関与が大きいものと、誘因の関与が大きいものがあると指摘しています。
・発症脆弱性
→遺伝的要因のこと。
・誘因
→発症脆弱性を作動させる環境的要因のこと。
🍅松本ら(2013)も、遺伝的要因と環境的要因について、これら2つは双方向的で、遺伝的要因が特定の遺伝子の性質(表現型という)を決める際には環境的要因の影響を受け(遺伝環境交互作用という)、環境的要因は遺伝的要因の影響を受ける(遺伝環境相関という)と述べています。
・遺伝環境交互作用
→人によって異なる環境を経験すれば、同じ遺伝子でも表現型が違ったものに変化すること。
・遺伝環境相関
→たとえば、親が神経質に振る舞う習慣を持っているとすると、
・受動的相関(子どもはその習慣を共有して神経質になる)
・能動的相関(子どもが神経質になった結果、神経質な行動を取るようになる)
・誘導的相関(子どもが「自分は神経質だ」と周りの人に伝えると、周りの人は「あの人は
神経質だから」という対応を取り、子どもが神経質な行動を取ることをさら
に促してしまう)
🍅西松・斉藤(2004)は、環境的要因が強い精神疾患であっても遺伝的要因が関与しており、同じストレスを経験しても全員が発症するのではなく、先天的に持っている遺伝子の組み合わせにより発症のしやすさ・しにくさがあり、かつ、そうした社会的な体験が遺伝子の現れ方に影響を及ぼすと述べています。
🍅パニック障害に話を戻すと、遺伝的要因と環境的要因という2つの要因が複合的に作用するため、単なる遺伝のメカニズムからの解明はほぼ不可能といえるでしょう。
2.遺伝の基本的知識
🍅遺伝を最初に唱えたのはオーストリアのメンデル(G.J.Mendel)で、19世紀のことです。彼は、そら豆の観察から遺伝の法則を唱えました。詳細は端折るとして、親の生物学的な性質が子に受け継がれることが遺伝です。
(2021/7/11)メンデル(の時代)の遺伝の考え方は原因遺伝子が1つだけの単純なもので、精神疾患のような、環境の影響によって遺伝子の発現が変化したり複数の遺伝子が相互に関連するなどの複雑な現象を説明することはできません。
(1)DNA・ゲノム・遺伝子
🍅人の細胞を顕微鏡でどんどん拡大していくと、遺伝をつかさどる物質を発見することができます。
🍅まず、人の細胞内には核があり、核の中には46本(22対+性染色体1対)の染色体があります。この染色体の中にDNA(デオキシリボ核酸)という物質があります。
🍅DNAの中では、アデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、チミン(T)という4種類の塩基(アルカリ性の物質)が塩基配列という文字列を作っています。そして、この塩基配列が全く同じ文字列がもう一本あって、これら二本の文字列が二重らせん構造になって絡み合っています。この塩基配列のことをゲノムといい、これが動物の形質を決定します。
🍅人間のゲノム(ヒトゲノム)の場合、その塩基配列は約33億対あり、2003(平成15)年に全てが解明されています。ゲノムには、以下の2つの情報が含まれています。
①親から子に伝えるべき遺伝情報
②その遺伝情報をどのように表現させるかという命令に関する情報
🍅ヒトゲノムの解読によって分かったことは、遺伝情報を持っているのは全体の3%で、残り97%は遺伝情報を持っておらず、遺伝情報をどのように表現させるかに関するものでした。
🍅ゲノム内の遺伝情報は、それ自体は情報というだけで何の機能も果たしません。遺伝情報はRNA(リボ核酸)という物質により転写され、さらに転写された遺伝情報がたんぱく質に変性してはじめて形質として機能します。この過程が、先に述べた「遺伝情報をどのように表現させるかという命令」の部分で、「発現」といいます。
🍅ここで、DNA、ゲノム、遺伝子という用語の違いについて簡単に触れておきます。
・DNAとは、単なる物質の名前であって機能を示すものではありません。
・ゲノムとは、DNAの中にある塩基配列のことをいいます。
・遺伝子とは、ゲノム内の遺伝情報のうち、たんぱく質の合成に関するもののことをいいます。
🍅人間の遺伝子の数は、約30,000個とされています(ゲノムの約33億対と区別しましょう)。このうち、脳機能に関係しているものは約10,000個で、これら10,000個の遺伝子の性質を発現させるためのゲノムの組み合わせ数は膨大量(計算不能)となります。
(2)遺伝子の複製とそのエラー
🍅遺伝情報が複製されるときは、二重らせん構造がほどけ、一本ずつになったそれぞれの塩基配列が新たにもう一本の塩基配列を複製し、再び二重らせん構造を作ります。
🍅この複製時には、さまざまなエラーが生じることがわかっています。
・多型(塩基配列が通常とは異なっている部分のこと)
・多型には遺伝的多型と表現型多型がある。
・一塩基多型(SNP:Single Nucleotide Polymorphism、「スニップ」と発音する)
・遺伝的多型のうち、全ゲノムのうち一つの塩基配列に異常があるもので、かつ、
人口の1%以上に存在するもの。
・SNPに疾患リスクがある場合をリスクSNPという。
・突然変異
・人口の1%未満に存在する異常のこと。
🍅また、精神疾患の原因となる遺伝子については、頻度は高く現れるが効果が小さいものと頻度は低く現れるが効果が大きいものがあり、特に後者をレアリスクバリアント(rare risk variant)といいます。
🍅さらに、遺伝ではDNAの塩基配列が突然変異せず、環境的刺激(喫煙、食事、大気汚染など)が遺伝情報の発現を変化させることがあり、これを「修飾」といいます。そして、この修飾に着目した研究のことをエピジェネティックス(epigenetics)といい、特にDNAメチル化(遺伝子の発現を抑制するとともに、それによる疾患を引き起こす)の解明がテーマとなります。
文献
穐吉條太郎(2012)「不安障害の病態と診断」『精神神経学雑誌』第114巻第9号、pp1063-1069.
稲田泰之(2003)「パニック障害とセロトニン2A受容体遺伝子との有意な相関」大阪医科大学博士論文。
貝谷久宣・土田英人・巣山晴菜・兼子唯(2013)「不安障害研究鳥瞰―最近の知見と展望―」『不安障害研究』第4巻第1号、pp20-36.
神庭重信(2006)「ストレスから精神疾患に迫る:海馬神経新生と精神機能」『日本薬理学雑誌』第128巻第1号、pp3-7.
松本友里恵・國本正子・尾崎紀夫(2013)「うつ病発症と遺伝子/環境相互作用」『精神保健研究』第59号、pp7-15.
西松能子・斉藤卓哉(2004)「遺伝学とニューロサイエンスの進歩が精神医学・心理学へ与える影響」『立正大学心理学研究所紀要』第2号、pp65-75.
音羽健司(2014)「不安障害の遺伝研究」『不安障害研究』第5巻第2号、pp73-84.
柳橋達彦(2016)「心と行動の遺伝学」『IRYO』第70巻第4号、pp209-213.